「冬にはポーランドに来るの? あなたとこの先また会えるかしら・・・」これがお別れの言葉になりました。亡くなる4日前の電話を置く時のことです。

語り尽くせぬ思い出と、教えと、ショパンの音色を残して、ブコフスカ先生は昨年12月9日83歳で  旅立って逝かれました。BHB_Grob_001

1949年ショパン国際コンクールで最年少第2位に入賞以来、ポーランドを代表するピアニスト、ショパニストとして世界中で演奏なさっていました。

ブコフスカ先生のショパンには古めかしさがまったくなく、軽やかに、きっぱりと、とても大胆な曲運びをなさるのでした。

それでいてマズルカはポーランドの風物を映し出し、心の奥深くにまで哀愁が垂れ込めてきて、そのペーソスがいったいどうやって醸し出されるのか、不思議で仕方ありませんでした。

 

留学中、先生のご両親のところに住ませて頂き、命名日のお祝い、クリスマス、イースター、来客の時など、どんな行事でもテーブルの端に座らせて頂きました。

私がわかってもわからなくても、ご両親やお客様は忍耐強く、ポーランドの慣習や歴史や政治について私に語りかけて下さるのに、先生は私に一瞥もくれずということがほとんど。。。

レッスンは、指使いとペダリングについては徹底して厳しかったですが、解釈や技巧についてはほとんど触れませんでした。天性と本能に頼れば最高の演奏になっていた先生は、研究の末に何かを得る必要などなかったので、どのように弾くかを教える術をお持ちでなかったかもしれません。

 

いつの間にか私は先生のことを母のように慕うようになり、この10年間、行けばワルシャワのお宅のキッチンで、尽きることなく、いつまでもおしゃべりしました。

先生はたいていガウン姿。私が作ったカレーやシチューをいつのまにか一人で平らげてしまったり、食べてはいけないはずのスウィーツを、ちょっと私がよそ見している間に5つも6つも口に放り込んだり、晩年は、そんな穏やかな時が流れました。

 

昨年の8月、強い夏の陽射しに照らされ、私の髪が風になびいた瞬間、「ショーコ、今日はあなたが見える。髪が長いのね。」と。長年の糖尿病で視力が衰えていたのが、突然目のくもりが拭われて私の姿が先生の目に写ったのでしょう。

不思議な瞬間でした・・・

そして、手を伸ばして私の髪をそっと撫ぜて下さったのです。私の目が涙でくもり先生がにじんで見えました。

 

ブコフスカ先生、今は雪の下に眠られて、お寒くないですか。

留学時代の身のすくむような厳しさにも、近年の母のようなおやさしさにも感謝していますけれども、結局は先生のショパンが私の財産です。

 

写真は一周忌に集まったブコフスカ門下の友人たち。左からマリウシュ、息子のマチェック夫妻、キンガ、BHB_Od_Mriusza_001卒業後ジャズに転向して昨年アメリカのグラミー賞を受賞したパヴリックと奥さんのイオラ。

 

 

 

 

バルバラ・ヘッセ・ブコフスカ略歴

1930年ポーランドウーヂで音楽家の家系に生まれる。2歳でワルシャワに移り、1949年マルゲリータ・トロンビーニ・カズロー教授のもとワルシャワ高等音楽学校を修了。1949年第4回ショパン国際コンクール第2位受賞。ロン・ティボー国際コンクールでショパン賞受賞。以後半世紀に渡り世界的に演奏活動。1962年カーネギーホールでのリサイタルに対してハリエット・コーエンメダル受賞。ワルシャワショパン音楽大学教授、ショパン国際コンクール審査員。2013年12月9日没。Warszawa  Powazki墓地に眠る。