ショパンが肺を病んでいたのは、ショパンの生前の手紙や、様々な資料から周知されていますが、39歳でパリで亡くなったショパンの正確な死因について、ようやく結論づいたというニュースがはいりました。

ショパンの死因は本当に結核だったのか。。。という議論は何度もなされ、疑いも持たれてきました。

ポーランド科学アカデミー・ヒト遺伝研究所のグループは、2014年から行ったショパンの心臓調査の結果、ショパンは長く『結核』に苦しみ、合併症として深刻な『結核性胸膜炎』を患い、死に至ったことを結論づけたそうです。

https://jp.sputniknews.com/culture/201711184288932/

ショパンは1849年10月17日39歳で、パリのヴァンドーム広場に面した部屋で逝去。死期が近づいていた同年、姉のルドヴィカはショパンによばれてパリまで行き、そして弟を看取ったのでした。

死の直前にショパンは、祖国ポーランドに埋葬してもらいたいと姉に願ったそうですが、結局、遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、心臓は取り出されて、アルコール漬けにしてルドヴィカがワルシャワに持ち帰りました。

現在もショパンの心臓は、ワルシャワの聖十字架教会の柱の内部に安置され、私もワルシャワに行けばその柱をお参りしています。

レオナルド・マルツォニによる碑銘文が美しく刻まれています。

「あなたの宝のあるところには心もある  マタイによる福音所六章二十一節

フリデリク・ショパンに捧げる

同胞1810年2月22日ジェラゾヴァ・ヴォラに生まれ 1849年10月17日パリにて逝去」

さて、ここでショパンの心臓がどのようにワルシャワまで持ち帰られ、その後どのような経緯をたどったか話をしておきましょう。

ルドヴィカの息子アントニによる追想文によると、

「叔父(ショパン)のフリデリクに呼ばれて、母は1849年にパリに行きました。叔父も母ももう時間があまり残されていないことをよく意識しており、遺体をどこに埋葬するかを二人は何度か話し合っていました。

叔父はワルシャワのポヴォンスキ墓地に埋葬してほしいと願っていましたが、社会状況からも、それが困難であることを理解しており、『あのパスキエヴィチ(帝政ロシアのポーランド将軍)は、僕をワルシャワまで運ぶことなど許さないだろうから、せめて心臓だけでも持ち帰ってほしい』と母に話していました。」

ショパンの死後、解剖して取り出された心臓は、アルコール漬けしてガラス瓶に収められ、ルドヴィカはそれをひそかにワルシャワに持ち帰り、聖十字架教会の地下埋葬室に安置された後、現在の柱に埋められました。

ところが、ワルシャワは戦争で壊滅的な状況に陥り、それでも、1939年第二次世界大戦では破壊を免れたものの、1944年のワルシャワ蜂起では、目抜き通りにある聖十字架教会に蜂起軍は立てこもり、ドイツ軍は激しい砲撃を開始。

その時に起きたことは、奇跡だったのかもしれません。

ドイツ軍の一将校が戦闘の一時休戦を申し入れ、その間にショパンの心臓は郊外へ運び出されたのです。ドイツ軍の将校が、あの当時ショパンの音楽を愛していたがために、心臓を柱ごと破壊することは忍びなく、時間の猶予を与えたという事実。

この事実は、旧体制時代には当然のことながら伏せられたままでした。

体制が変わり、旧体制時代に隠ぺいされたり闇に葬られた多くの史実が、歴史の空白を埋めるように明らかにされていき、ショパンの心臓を郊外に運び出した若い神父も、半世紀という時間を経て、ようやく、ショパンの心臓が戦禍を免れた事実を語りました。

戦争が終わった1945年10月17日、ショパンの心臓は再び安泰の場所に戻されたのです。柱には小さなプレートが付され、そこには

「1945年10月17日 ショパンの心臓は ワルシャワに帰還した」とあります。

参考資料:愛と追憶のポーランド アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ